cirrus’s writing a note

私が書き溜めたノート。言葉の力で、あなたの心を軽くしたい

資格の壁を越えて、自由を手に入れる

私の経験から生まれた言葉で、あなたの心を軽くしたい。 

 
 
人は変になることを嫌がる。普通になろうとする。

 

だけど、そのままで良いと肯定する。
 

 

どんな自分とも共存共生する。

 

 

私は作業療法士という資格を持っていますが、この資格を持って整形外科のクリニックで仕事をしている人はほとんどいません。県内の所属が記された名簿を見ましたが、私を含めて2人でした。

なぜかというと、整形外科クリニックに来る方は、骨折や捻挫などの外傷。ご高齢なお体からくる変性。スポーツで繰り返される過剰な運動による痛みなどの方々が対象となります。これらを得意としているのは理学療法士さんだからです。

理学療法士の方々の会誌や文献を閲覧しても、それらのことを研究し、原因の究明や、症例の発表がかなりの量を占めています。理学療法士を目指された方は、この為に資格を取ったという方も多くいて、この資格のアイデンティティをもっています。

 

そんな理学療法士のフィールドに立った作業療法士の私は、とにかく資格という偏見に悩まされました。

 

利用される方からしたら、作業療法士より理学療法士にみてもらいたいと思うでしょう。社会的にも理学療法士の方が名前が通っているので、安心感が違います。理学療法士の方が偉いんでしょ。くらいに言われてしまうことも珍しくありません。

利用者さんのように医療に詳しくない人が言うなら、説明の余地もあるし、教えてあげようと思えますが、衝撃なのは、雇い主の医師が理学療法士でも作業療法士でもどっちでもいいんだよ。と言ってしまうことです。これは本当に衝撃です。それなら、なぜ作業療法士を雇ったんだ。最初から理学療法士だけ募集すればよいのに、医師の無知の為に私はどれだけ苦しんだことか。

それを横目で見ている理学療法士は完璧に私を見下しています。隣で私の臨床を見てはため息と舌打ちです。理学療法士の技術をみて、ただ真似っぽいことしてるだけだろ。と暴言吐く次第。それが悔しくて、どれだけ勉強してロジックを理解し、全力で実践をしたとしても、資格という大きな壁により、誰にも認められない日々が続いていました。

あの時の自分は資格の壁を感じつつも、認められたくて必死でした。生きる基準を相手に設定して、相手の望まれる自分になろうと思っていたのです。

資格という偏見に悩まされながらも、もともと同じ人間なのに、どうして資格で分けられて、資格があるからそれが出来るみたいになったのだろうと思いました。資格があれば出来るの?資格がないから出来ないの?いや違うでしょ。同じ人間なんだから、出来る出来ないは自分次第だろうと。

 

資格に偏見を一番持っていたのは自分だってことに気づきました。

そして、自分の基準を周りに置いていては、ずっと辛いなと思いました。

 

資格の枠を超えて、私は平気で理学療法士の領域に足を踏み込み続けました。だって、それが今必要な知識で、利用される方の為になるからです。

今では、理学療法士と本気で討論をしています。あんなに必死で勉強したのですから、そこら辺の理学療法士には勝ってしまいます。そうすると、今度は理学療法士がムキになってきます。だって、アイデンティティをもっているのに、作業療法士に領土に踏み込まれて良い気分はしないでしょう。でも私は資格の領域を一度超えました。自分を縛っていた紐を解いてしまった感じです。もう、相手の目を気にすることも、自分が何であるかも関係がないのです。私は私の思うように生きてよいと自分を肯定しました。

 

今、様々なアイデンティティと共存しています。その時その時で、自分にとって丁度よいアイデンティティを引き出しながら仕事をしています。

時々悩むこともありますが、その悩みが新たなアイデンティティを生み出すのだと肯定して、そんな自分を受け入れるようにしています。